COLUMN
友人の母への追悼文。(00.3.20)
最近へこたれることが多くなってきた、と思う。
そんな自分が嫌になり、信じられなくさえなる。自分で自分が信じられなくなったら終わりさ、と平然とアジッていた頃が懐かしくなる。
二十歳の頃、物事を「自分で」考える、ということについて考えた。
それは例えば、僕たちの抱く欲望が、すでに世の中にある欲望の可能性をなぞることしかできないように、僕たちの考えは、そのほとんどが、すでに世の中にある考え方(社会通念、習慣、常識)をなぞっているに過ぎないということに、気付いたからだった。
そうした枠から抜け出して、いや抜け出すことすら意識せずに、自由に「自分で」物事を考えるようにしよう。
そんなことを考えてから、僕はいつも「自分なり」の“ものさし”で、道を選んできたつもりだった。
もちろんダンシング・デイズが過ぎれば、人は誰でも臆病になる。刺激的に生きようとすれば、命がけだ。深みにはまる。微温な満足の方が自分にも、周りにも都合がいい。そんな大人の知恵もついてくる。そろそろ潮時かな、と自嘲的に小声でつぶやいてみたりする。
闘士だった、と言う。西新宿のバーで、「母」のことをそう語る息子の断定的な口調が、妙に羨ましかった。
でも、たぶん僕はただ聞き、そのまま流すにとどめたはずだ。手触りのない尊敬は「不敬罪」に等しい。それが“ものさし”だった。
一、二度、電話で話したことがある。息子は不在だったり、別の場所に住んでたりしたが、然るべき番号を教えてくれる口調が、少々怖かったように記憶している。何やら骨太な気配がして気後れしたように思う。ただ息子に用事があっただけなのに、直感的に、負けたように感じたことを覚えている。
一二月、「母」は亡くなり、少し経ってから僕は「母」と出会った。亡くなってから出会ったって、全く何の不思議もない。手ぶらで訪れたその部屋には、彼女の手触りがあった。少なくとも、彼女の手触りの一部と、僕は府中の家の廊下で出会った。
知った、のではなくて、出会った、気がしたのは、例えば本棚の景色が我が家の本棚と似ていたからだと思う。最近とみに怪しくなった記憶力は、その具体的な色をとどめてはいないけれど、そこには僕がかつて持っていて今はどこかへ行ってし
まった本や、僕が好んだ懐かしい本たちが、まるで必然のように並んでいた。そんなささやかな、いやさりげない巡り会いを、僕は信じている。思いを巡らせる。
例えば山川健一。僕はバイクで辿りついた。彼女はきっとロックンロールを経由してやってきたのだ、などなど。あの部屋には、親しみを伴う近しさと、きちんと尖ったベクトルが満ちていた。そんな彼女の人生を信じられると、感じた。僕にとって、幸福な年の瀬の出会いだった。決して遅くはない。必然的な出会い。しかも幸福な。おまけに僕は何やらお土産をもらったような気分だった。
いまの僕には人生が何だかとても苦くて、不思議なものに感じられるんだ…
そんな歌詞が身に染みるようになってきた。弱気な自分を信じられなくなって、そろそろ潮時かな、とつぶやきそうになる。これではいけない、と自分を叱咤している自分に気づいて、さらに萎む。また自分が嫌いになる。烙印を押してしまう。
でも、それでいいのかもしれない。そんなものなのかもしれない。最近そう思えるようになってきた。それがお土産だった。
闘病中、「母」は掌仏を枕元に置いていたという。
きっと強い人だったのだと思う。生涯を悠々と生きた人だった言う。自分の人生を信じた人だったに違いない、強く。
そんな彼女の病院の枕元に仏があったという事実を、僕は想像する。深夜、一人、その石を見つめる彼女を、想像する。強い「母」の姿を、想像する。
彼女ですら、と思う。そして、人はそれでいいのだ、と知る。
これでいいのだ。自分で烙印を押すことはないのだ、と癒される。
彼女の息子の「連れ合い」にして「仲間」を介して、僕はそんなお土産をもらった。手ぶらで行ったのに、すみません。
年を重ねるごとに経験が希薄になり、苛立つことが多くなってきた。ロマンとリアルの狭間でさまよう夜が長くなってきた。
でも、まあそんなものなのだろう。それもこれも全部、込みなのだ。
それにしても、あと二七年…。気が遠くなる。僕はいつまで踊り続けられるだろうか。掌に小石を握り締めながら問い続けること。それが踊り続けるということならば、少しは頑張れそうな気もする。
「母」と「息子」と「連れ合い」にして「仲間」との、切ないけれど幸福な出会いが、それを教えてくれた。
追悼に感謝を添えて 川端康生 三五歳