HISTORY



 風が吹き、星は輝く   1987・3(原文のまま)

 目が覚める。既に太陽は真上に来ようとしている。
 いつものことだ。店を始めてから起床はいつもこの時間だ。既に妻が開店の準備を始めているはずだ。もう少し布団に入っていれば起こしに来るだろう。それまで、布団のぬくもりの中でぼーっとしていればいい。俺は朝のこの短い時間が好きだ。とても安らかな気持ちになれる。
 そして顔を洗って店のコーヒーを一杯飲む。それから店を開ける。そうすればあとはいつものように近くの会社や役所の人々が昼休みに軽い食事とコーヒーをとりにやって来る。贅沢をできるほどではないが、まあまあの収入はある。
 もともと大学を出て、田舎に戻ると決めた時点で、金の不安はなくなった。田舎には先祖代々の土地があったし、親と一緒に生活していれば衣食住の心配はない。幸い地方銀行ではあったが就職も決まっていたし、あとは何とかなるだろうと思っていた。

 そんな中でささやかな夢がこの店だった。人並みに働き、金が貯まったところで脱サラし喫茶店を開く。5年前、ようやく資金も溜まり、銀行を辞める時、回りからはうらやましがられ、自分もそれなりに嬉しかった。
 しかし、それにしたって親が土地を提供してくれたし、資金面でも多少援助してくれた。その代わりに一生面倒みなくてはならなくなったが、そんなことは大学を出て田舎へ帰ることに決めた時点でわかっていたことだ。
 汗水たらして働き、他のものを犠牲にして手に入れた店…そんな気は少しもしない。回りの援助と人並みの努力の結果、簡単に達成されてしまうような、ささやかな夢だったのだ、初めから。

 大学を出る時、俺にも選択できる道がいくつかあった。そして、一度は東京で超一流とまではいかなくとも、ある程度の就職が内定していた。しかし、それも田舎へ帰ればアパート代はいらない。掃除、洗濯もしなくてよい、通勤ラッシュはない、車も買えるだろう…そんな安易な考えで地方銀行へ変えてしまった。
 別に後悔しているわけではない。大学の友人たちも「その方が楽な生活ができるだろうし、おまえには合ってる」と特に反対する奴もいなかった。「おまえには合ってる」と言われ、いい気持ちはしなかったが、しいて反論する気にもなれなかった。それに自分でもそれが合っているように思えた。

 しかし、中にただ一人猛然と反対する奴がいた。それが彼だった。彼はそんな人生なんてつまらないと言った。自分のやりたいことを一生やり続けるべきだと言い張った。
 俺は自分のやりたいことは別にないし、普通に就職して、子供を作り、その子と日曜日にキャッチボールをするのが夢だ、と答えた。
 彼は、そうか、それならいいが…と言ったが、「カメラは…」と付け加えた。確かに俺は高校時代から写真が好きで将来は写真家になれればいいなと思ったりもしたが、それはあくまで「なれたらいい」であって、「絶対になりたい」というほどのものではなかったし、自分にそれほどの才能があるとはとても思えなかった。自信がなかった。

 そんな彼も、俺が東京の有名企業に就職が内定した時には、その競争率に驚き、「すごい」「すごい」と連発したのだった。しかし、俺がそれを断り、田舎の地方銀行へ行くと告げた時には、何か言いたそうな顔をしていたが、彼が口を開く前に、俺は言った。
「俺には、こっちの方があってるんだよ。俺は安定志向なの、おまえと違って…」
 そう、俺はあいつとは違うのだ。ささやかな幸せで満足できる。そして、いま、まさに俺はささやかな幸せの中にいる。平凡ながら気立てのいい妻と4歳の息子、あと5年もすれば一緒にキャッチボールができるだろう。そして、ささやかな夢も実現した。それなのに…。
 いや、別に後悔しているわけではない。俺はあいつとは違うのだ。いまの生活に十分満足しているのだ。決して後悔などしてはいない。

 階下に降りていき、店のカウンターに座る。妻がコーヒーを入れてくれる間に、郵便受けへ新聞を取りに行く。今日もいい天気だ。昼は忙しくなりそうだ。新聞を取る。と、一枚の葉書が地面に落ちた。黒く縁どりされた葉書。
 そこに彼の名前があった。



 彼との出会いは、高校時代だった。当時、俺は地方では名門とされる県立高校の3年生だった。毎日、特に勉強に励むわけでもなければ、部活に青春をかけるでもない。ごく平凡な生徒だった。
 成績がとりたてて良いわけでもなく、クラスで決め事をする時も、一度くらいは発言するが、かといって俺の一声で決着がつくというようなこともない、まさに平凡な一生徒だった。
 彼はそのクラスにいた。彼は野球部に――高校時代が青春の時であるならば――青春のすべてをかけているように見えた。おかげで授業中は居眠りの常習犯で先生によく指名された。
 そのくせ、時々ホームルームなどで、鋭い発言をし、みんなの目を覚まさせたりすることもあるのだった。
 かといって、みんなから尊敬されるなどというのとは程遠く、どちらかといえば自分勝手で、軽いノリの三枚目で…そんなつかみどころのない存在だった。

 こんなことがあった。秋の遠足のバスの座席を決める為に、くじ引きが行なわれた。その結果、男子生徒の数人が後部座席にかたまった。彼と俺の名前もその中にあった。
 しかし、女生徒から猛然と抗議が起こった。こんなふうに男子が固まるわけがないというのだった。
 当然である。くじを開く前に、俺たちが細工をしたのだ。先生から離れた後部でどんちゃん騒ぎをやろうという魂胆だった。ホームルームは紛糾、級長は困り果てていたが、結局、一部の無法者の勢いで、そのまま押し切られた。結果、納得のいかない女生徒と男子生徒の間に溝ができ、クラスは二分した。
 その日、彼は沈黙を守っていたが、翌日授業中に彼はノートを破って、回覧板を作り、教師の目を盗み、クラス中に回したのだった。その回覧板には、昨日のくじは確かに不正があり、申し訳なく思っている。しかし、今から白紙に戻すわけにもいかないので、自分は席を代わってもいい。自分の他にも同志はいるので、どうしても後ろに行きたい女子は申し出てくれ、と書いてあった。
 その結果、女子の気持ちも多少和らぎ、クラスもなんとか元の雰囲気に戻っていったのだった。
 ノートを破って授業中に回覧させるなど誰にでもできることではあるが、なかなかやらないことだ。そういう事を恥ずかし気もなくやってしまうところが彼にはあった。

 しかし、彼がこの回覧板作戦を行なった本当の目的はクラスのことを心配してではなかった。実は、当時彼には好きな女の子がいて、その子になんとか自分のことをアピールしようとしてやったらしいのだ。
 後でこのことを彼から聞いた時、俺はとても彼らしいと思った。彼はそういう男なのだ。しかし憎めない奴であるということも確かなことだった。



 昼休みも終わり、店の中は静かになった。さっきまでの忙しさが嘘のようだ。ホッとため息をついて煙草を一服する。妻が奥で息子と俺のための遅い昼食を作っている。俺は朝の葉書を取り出す。
 それによると、彼は不慮の死を遂げたことになっている。「不慮の死」とは何だろう。交通事故にでも遭ったのだろうか。あるいは…
 俺の胸に冷たいものが流れ込む。彼は昔から「生きるために自殺をしてみたい」と言っていた。つまり、自分が生きてるんだという実感を得たいというのだろう。
 そうかもしれない。彼は自分のやりたいことをやりたいようにやる男だった。

 いずれにしても、彼は死んでしまったのだ。もうこの世には存在しない。俺に向かって「生きるということはなぁ…」などと偉そうに説教することもないのだ。
 やれやれ…
 そう思った瞬間、悲しみがこみ上げてきた。彼はもういない。もう二度と会えないのだ。
 彼と最後に会ったのはいつだろう。あれは確か三年くらい前だ。ちょうど今日のようによく晴れた日のいま頃の時間だ。俺はあの日も今日と同じように、ここに座って煙草を吸っていた。
 そう、今日と同じ様に…。
 あの日だけではない。俺は店を始めてから、ずっとここに座っているのだ。



 ドアの開く音がして俺は「いらっしゃい」と言いながら、ゆっくりと振り向いた。そこに彼が立っていた。
 一目見て彼だと思い、俺は驚きながら、彼に近づいて行った。そばへ寄った時、俺はあるいは人違いをしたのではないか、と思った。彼の顔つきが変わっていたのだ。
 しかし、彼は「思ったよりいい店だなぁ」と店内を見回しながら言った。その時には彼の顔は昔に戻っていたが、最初に見た時の野生味あふれた顔は俺のまぶたに焼き付いていた。
「いまバイクで日本中を回りながら、ツーリングレポートとか書いてるんだ」
「へー、出世したんだなぁ」
「いやいや…そんなことよりアイスティってやつを一杯くれないか。マスター!」
 彼は昔の笑顔で言った。

 彼の話によると、大学在学中からバイク雑誌に投稿したりしているうちに、ウチで働いてみないかと声をかけられたらしい。もちろん専属ではなく、フリーとしての契約だが、ガソリン代、その他諸経費を出してもらえるうえに、色々なところへ行け、ツーリング日記として載せてもらえるのだそうだ。もともと旅好きだった彼にとっては渡りに舟だったのだろう。
「もちろんギャラは安いけどね。まあ、旅から旅への旅ガラスってとこかな」
 アイスティを飲みながら彼はニヤリと笑った。
「芥川賞はどうなった?」
 冷やかし半分に俺が言うと、今度は声をあげて笑いながら、「そのうちね」と言った。
 しかし、笑った目の奥には昔と同じ鋭い光があるように見えた。俺は彼の横顔を見ながら思ったものだ。
 こいつは今でも夢を追ってるんだ、と。
 そして数倍鋭くなった彼の顔つきを見ながら、俺はどうだろう、と思った。俺も年と共に何かを身につけて来たのだろうか。
 彼に聞きたかった。
「俺も変わったか?」と。

 しかし、俺にはよく分かっていた。俺は失っていくだけだ。妻をめとり、子をもうけ、店を持ったその後で、俺は丸くなって、このカウンターでしぼんでいくだけだ。いや、俺だけではない。大部分の人がそうなのだ。
 そして、そのことに気づく人もあまりいないだろう。もし気付きそうになっても、“ささやかな幸せ”からはみ出すのが怖くなって、その考えを心の奥底に沈めこみ、気づかないふりをしているのだ。
 俺はたまたま目の前にこの男がいるから、それだけ強く感じるだけなのだ。しかも、俺は自分から望んで、こういう生き方を選んだのだ。普通の生き方を。何も彼に気後れする必要などないはずだ。それなのに…。

 別れ際、「ずっとここでお店をやっててくれ、また必ず来るから」と名残惜しそうに、哀願するような目で彼は言った。俺は彼の弱い面を見たような気がして、ハッとしたが、次の瞬間には彼はバイクにまたがり、「じゃあね! 美人の奥さんによろしく!」と捨てセリフを残して走り去って行った。
 俺は、彼と彼のバイクが見えなくなるまで見送った。どこまでも走って行く彼、じっと見送る俺…。初秋の夕焼けが空を染めていた。
 夜、妻が昼間突然やって来た亭主の旧友について、「まだ結婚してないみたいだけど、どうしてかしら。早く結婚すればいいのにね」と俺に寄り添いながら言った。
 俺はまた一つ何かを失くしたような気がした。



 葬式はしめやかに行なわれた。俺の知らない顔がたくさんあった。
 彼らに話しかけてみると、彼らは彼と旅先で知り合ったようだった。それも一度か二度しか彼と言葉を交わしていない人が大部分のようだ。彼らは彼と出会い、ほんの短い時間いっしょに過ごして彼の魅力に引かれたのだ。彼もそんな彼らを大切にし、手紙のやりとりをしたり、再びその地を訪れた時には顔を合わせ、再会を喜びあっていたようだ。

 色々な人がいた。彼と同じように旅を生活の一部にしている人、普通のサラリーマン、大学生…。彼らは彼と地方の居酒屋でたまたま相席し、酒を酌み交わしたり、エンジントラブルで途方に暮れていた彼を自宅へ連れてきて、一宿一飯の趣しをしたり、そんな偶然の中からの出会いが大部分だった。
 なかには彼にナンパされた女子学生もいたが、そんな一人一人が生き生きと目を輝かせて、彼との思い出を話し、彼の素晴らしさを語った。そして、ここへ来るまでは見知らぬ他人だった人たちが彼を通じて仲間になっていた。

 俺は彼の力に驚いていた。彼は一般的には有名人ではない。しかし、彼の世界ではスターであり、彼らの夢を背負っていたのだ。おそらく彼にはみんなの夢を背負っているという自負はなかっただろう。
 だが、彼らは彼の姿にそれぞれの夢を重なっていたのだ。ちょうど最後に彼を見送った時の俺のように。あの時の夕焼けはいまでも瞼に焼き付いている。あの時、俺も彼の走り去っていく姿に夢を重ねていたのかもしれない。

 そして、彼らの中の一人が、彼のよく言っていた言葉を引用した。
「生きるためにでなく
 生きてるからこそ
 やりたいことを
 自分のために」
 その時、初めて湿った空気が流れ、すすり泣く声が漏れた。俺はその場を離れた。
 玄関で彼の母親に呼び止められ、一通の手紙を手渡された。投函されていない俺宛ての手紙だった。俺は丁寧に受け取り、胸ポケットに大事にしまい込んだ。



 家へ帰って手紙を取り出し、封を切った。死者からの手紙かと思うと、封を切る手が震えた。
 しかし、予想に反して、手紙の内容はいつものたわいのないことだった。
 店の景気はどうだだの、二人目の子供はまだかだの、そして何人かの共通の旧友の名前をあげて、よろしく、と結んであった。俺は少し期待はずれだなと思いつつも、なぜかホッとした。

 そして追伸と記された先を読んだ。そこには、現在自分は自信作を書いている途中であること、これが完成すれば必ずや文壇にデビューできるだろうから、その時はおまえの店でパーティをやって儲けさせてやると書いてあった。
 彼らしいと思いながら、便箋を封筒に戻そうとした時、急に気になり始めた。
 自信作…書きかけ…俺はどうしても彼の自信作を読んでみたくなった。俺は一週間ほど落ち着かない日々を過ごした後、我慢できなくなり彼の両親の元で電話をかけた。

「風吹く頃」と題された彼の作品は、一人の少年の揺れ動く心の様子を詳細に描写した青春小説であった。そして多分に自伝的であった。
 時は高校時代、主人公の少年のモデルが彼自身であることは俺には、はっきりわかった。そして、彼を取り巻く登場人物の特定も容易だった。もちろんなかには該当する人が思いつかないこともあったが、彼が何のためにその人物を登場させたのか手にとるようにわかった。もちろん俺も登場していた。
 俺は読みながら、過ぎし日を思い、懐かしさに駆られ、物語に引き込まれ、胸を熱くした。素晴らしい出来だった。
 しかし、物語は高二の秋の部分で途切れていた。俺はこの後にはこんなことが起きるんだ、それからあんな事件もあった、と思い出をひもといた。と同時に、物語中の人物である彼の、主人公のガールフレンドとの恋の行方に胸をときめかせた。
 続きが読みたい! 心からそう思った。この物語が作者の死とともに未完のまま埋もれていくのは惜しかった。しかし、彼は死んでしまったのだ。彼が死んだいま、この物語の続きを書ける人間は…。

 まさか!
 俺は驚いた。俺の心の中で何かが動き始めていた。俺は不気味なその熱い塊を心の奥底に沈めようと試みた。
 しかし、それはジリジリと浮き上がってくるのだった。そして、それとともに心が、気持ちが、そして体中が熱く熱を帯びて燃え上がってくるのを感じた。いままでに感じたことのない感情の高まりであった。それが体中にみなぎった時、俺はおそるおそる心の中でつぶやいてみた。
 俺が続きを書こう。

 心臓がその鼓動を割れんばかりに打ち鳴らし、頭がクラクラした。俺は震える手で煙草に火をつけ、深く吸い込み、そしてゆっくり吐き出した。そして自分を落ち着かせながら考えた。
 この作品を中途で終わらせるのは絶対惜しい。しかし、彼は死んでしまった。誰かが続きを書かなければならない、とすれば誰が書くべきだろうか。これを書くのは、書けるのは俺しかないじゃないか。しかし、俺に書けるだろうか、俺に…。
 自信はなかった。しかし、なぜだか熱い何かは体中にみなぎり、心を満たしていた。俺はやっと、俺が書く気になっていることを認識した。

 俺がやるんだ。
 それにしても、さっきのあの興奮は何だろう。今まであんな気持ちになったことはなかった。一体あれは…。
 その時、初めて彼の気持ちがわかったような気がした。彼を衝き動かしていたのは、あれだったのだ。偶然にも彼が死んでしまったいま、彼が生きていたころ燃やし続けた熱い思いが、俺に燃え移ったのだ。偶然にも…。
 俺はハッとした。偶然だろうか。彼が俺に授けてくれたのかもしれない。
 しかし、いまの俺にとっては、そんなことはどうでもいいことだった。俺は熱いものを持った男になったのだ。

 窓を開けた。いつもと同じ星空が広がっていた。しかし、今の俺には星たちさえもが語りかけてくるような気がした。夜空に向かって大きな声をあげたくなった。
 それをやっと思いで沈め、代わりに大きく伸びをして、窓を閉めた。窓の向こうから彼が星たちとともに語りかけていた。
「生きるためにでなく
 生きてるからこそ
 やりたいことを
 自分のために」
 俺は振り返らなかった。いまではそれは彼の言葉であると同時に、俺の思いでもあった。
 俺は星たちの視線を背中に感じながら、窓から離れた。
 星たちはこれからも俺をやさしく見守ってくれるはずである。