1965.1.3 大分県中津市・福沢諭吉の生家近くで誕生。天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず。諭吉が独学した土蔵の印象は深い。
物心つく前に数回の引越を経て、中津から福岡へ。最古の記憶の家は、福岡市大手門の狭く暗い一間のアパート。汲み取り便所とバキューム車の残像が強烈に残っている。その後、大名第二公団に入居。当時としては珍しい洋式トイレのモダンな団地だった。が、現存する同団地はまさに歴史的遺物。廃虚のように見える。
1970 4月。赤坂幼稚園入園。いまはなき平和台球場に隣接。西鉄ライオンズはすぐに消滅するが、以後、太平洋、クラウンライターと友の会に入り、ライオンズファンを通す。平和台球場外野席は、少年時代の遊び場の一つ。試合を横目に、キャッチボールをしたり、鬼ごっこ。随分失礼なファンだが、当時はそんなのどかな時代だった。
1971 4月。家から道路一本隔てた大名小学校入学。道路にはチンチン電車。いまは地下鉄にとって代わられたが、あれはいいものだった。特にどんたくの頃の「花電車」はよかった。
小学校時代は、1・2年生のうちは剣道を習う。その後は、野球に熱中。毎日、放課後は長浜公園で野球。町内のソフトボールチームにも入る。
6年生頃、将来の道を心に描く。高校では甲子園、大学は早稲田、仕事は物書き。プロ野球もだが、高校野球が好き。ラグビーも好きで、早稲田対明治では、いつも早稲田を応援。五木寛之『青春の門』の影響もあったかもしれない。校歌もレコードを買って、すでに覚えていたほど。スポーツの一方で、読書好き。もっとも感化されたのは『次郎物語』と『天の園』。正義と郷愁。たぶん性格形成に影響大だったはず。
6年冬。大名から屋形原に転居。残り一学期なので、そのままバスで越境通学。1977年3月。大名小学校卒業。流行っていた歌、森田公一とトップギャラン「青春時代」。
1977 4月。花畑中学入学。越境で小学校に通っていたので、ここでは知っている人はゼロ。だが、特に物怖じすることもなく、すぐに友人もできる。大名とは違って、油山の麓で自然が残る地で自転車通学。一度、雪が膝くらいまで積もったこともあった。野球部に入るつもりだったが、なんと野球部がなかったため、しばらく帰宅部。途中から水泳部に。
うちの近所の英語塾・西英会へも通っていた。といっても英語の塾というより、かつての寺子屋的な塾で、人間教育を受けた気がする。
中学2年の1学期終了後、父の転勤に伴い、転出。結局、この土地にも、この家にも、1年半程度住んだだけだった。
1978 8月。三重県津市へ。教科書や制服の打ち合わせで学校へ行った折りに、夏休みのプール解放を発見、参加する。そのまま津市中体連の大会に出場。2位。正式転入前に友人もできる。流れ上、水泳部にも入部することに。9月。西橋内中学に転入。当初は方言(博多弁→伊勢弁)に馴染めず苦労。3学期からはすっかり馴れる。
3年時の思い出。コーラスコンクール。分裂、融合、絆。「翼をください」は今でもハモリパートを歌ってしまうほど。水泳部では百米平泳ぎ優勝。県大会へ進むが、そこでは実力不足。
1980 4月。津高校入学。硬式野球部。4時間目に早弁、昼休みをはさんで5時間目はよだれを垂らしながら居眠り、6時間目のチャイムと同時に部室へ。練習が終わったらうちへ帰って夕食、素振り、風呂でウトウト、自室で熟睡、気がつくとまた朝が来て…。そんな毎日を送る。特に1年夏休みのカンカン照り、合宿、百本ノックのきつさは、生涯2度と経験したくないもの。でも、あの頃にしかできない“かけがえのない”体験。2年夏終了後からは自発的、そして自分と仲間のため、の意味を知る。理屈ではなく、体の痛みを通して。以後、そうした連帯感を感じられないことを物足りなく思うという弊害もあるが。
2年秋大会は県大会進出。三重高校を破るも、海星に完敗。
修学旅行。九州。福岡の小学校と全く同じコース。もちろんメインは観光ではなく、夜。フェリーで迎えたラストナイト。初めて飲酒。RCサクセション。百人近くが狂乱。後日、大問題になり、退部一歩前まで。
3年夏。毎日新聞県内版の高校野球特集の表紙として『この一瞬に』という詩が掲載。初めて自分の名前を活字で見る。
夏の大会は、2試合コールド勝ちの後、3回戦で津西高に延長12回サヨナラ負け。思考は停止し、体全部が震えて、手が硬直した。慟哭。少し経って充実感。
野球に熱中している間、成績は急降下。2年時に授業をサボッて屋上にいる時に、野球部&同級生Bから「私立文系は数学は必要ない」ということを教えられて以降、特に数学は散々たるもの。0点というスコアを初めて見る。
3年秋退部後、初めて放課後というものを経験。当然、野球→勉強への切り換えはできず。文化祭。キャンプファイヤー。いまにして思えばスィートメモリーか。
校内同人誌に『素顔』と題した作文を投稿。恥ずかしくて再読困難ながら、当時の本人が書いている通り「17歳10ヶ月の素直な気持ち」を知ることはできる。
受験は当然のことながら全不合格。大したショックもなかった。受験で上京した折りに感じたことを投書し、雑誌に掲載される(
『あせるな』PHP83年6月号)。初めて商業誌で活字となる。
1983 4月。名古屋へ。早稲田予備校一社寮。受験のためという名目ではあったが、ようやく家を出て、自由に生きる助走を始める。この時期に初めてバイトをし、煙草を吸う。金がない時に、パン屋さんでパンの耳を買ってきて食べたりしたのも、この頃が初めて。
秋頃までは寮の友達たちと勉強より楽しい毎日。映画やファッション。深夜に寮を抜け出して牛丼を食べたり、女風呂を覗いたり。秋からは午前中、図書館で独学して、午後は名画座で映画。この頃見た『竜二』は金子正次と共に鮮烈だった。
予備校で行なわれた野坂昭如の講演で感銘を受け、朝日新聞に投書。
「声」欄に掲載される。田中角栄政治に一石を投じるために新潟3区で立候補した彼の心意気について。
1984 4月。早稲田大学社会科学部に入学。もっともまともに通ったのは1年前期まで。前期試験でのノートコピーやカンニングに馬鹿らしさを感じて。もともと就社するつもりがなかったので、単位を取るということに意味を感じられなくて。
サークルは、子供の頃からの憧れだったこと、そして高校時代の先輩がいたこともあって、ラグビー。60人くらいはいた大所帯かつ本格的なクラブだったが、いまいち馴染めず、夏の菅平合宿後はパチンコ屋へ入り浸って練習も徐々にサボリがちに。結局1年で退部。大学では、高校時代と違って本を読み、悩み、将来への準備をしなければ…と考えたこともあるが、それはたぶん言い訳。いまだにGWRCの友達には頭が上がらない。
東京生活は中野の4畳半・1万8000円の下宿でスタート。それでも友達が何人も泊りに来ていた。風呂もトイレもないというのに。
1年後に野方の3万3000円のアパートへ移転。トイレがついて6畳が嬉しくて、毎週日曜にはうちでゲーム大会など、女の子も呼んで、7、8人で遊ぶ。いまで言うと合コンみたいなものだった。その中から東京に来て初めての彼女もできる。
その野方のアパートでは、いくつかの小説(らしきもの)も書いた。小説というよりは、人生の岐路で、自分は本当は何がしたいのか、どんなふうに生きていきたいのか、をはっきりさせるために、いくつかの物語を書きながら考えていたように思う。
もちろん文章は下手くそ、それどころかストーリーの整合性がないこともしばしば。それでも人に相談するわけではなく、ワープロに向かって、自分の心の井戸に降りていって、世間と関わりなく、360度の可能性の中から、一人で道を選んだ。
『風が吹き、星が輝く』(87.3)/
『今年も鈴鹿に』(87.8)
あとはバイト各種と1年夏に免許をとり、ローンで購入した中型二輪。バイトはアンケート取り、テイッシュ配り、京粕漬け屋などいくつか経由して、法政大学そばの本屋に落ち着く。ここには3年間ほど。出会いも洗礼も経験もあった。結局、早稲田よりも飯田橋へ通った方が多くなってしまったが。
バイクは、ホンダ単気筒(CLUBMAN)。栃木、長野、群馬などへのツーリング。雨が降れば濡れ、風が吹けば揺れるバイクの魅力にとりつかれる。20歳の夏には、東京、名古屋、三重、京都、松江、萩などを経由して福岡まで。事故もあれば、事件もあり、感動もあれば、退屈も。
1988 就職活動をしないまま4年になり、ゴールデン街の先輩の紹介もあって、そのまま大学を横に出て、仕事を始める。ゴールデン街には19歳から通い始め、その後もずっとお世話になった。ほとんど金も払わず、誰かがボトルを入れてくれて、飲んで、騒いで、かわいがられて、説教されて。東京の故郷みたいなところ。
3月。日本プロサッカー株式会社。日本にプロのサッカーリーグを作ろうという興業会社。当時はまだJリーグは構想すらなく、民間でのこの動きにサッカー協会もビビットにセンシティブな反応をみせた。社会人の入口で、社会の構造とパワーバランスを実体験できたのは勉強になった。とはいえ、この会社は様々な問題を抱えていて、間もなく空中分解。消滅直前に身を引く。
またこの頃は、彼女がいるにも関わらず別の女性と半同棲したり、いくつもの修羅場に直面したり。社会人なりたてゆえの浮ついた自信が原因だったような。もちろんいずれも最終的には酸っぱい思い出になっていくのだが。
プロサッカー退社後の数ヶ月は、もっとも辛い時期。客観的に言えば貴重な経験、しかし僕自身にとっては二度と味わいたくない経験。「ひもじい」という言葉の意味を心と身をもって知る。空腹で眠れず、水を飲んでうとうとしては白昼夢を見、自分が何者でもないことに気づいて鳥肌を立て、来月、来年、その先どうなっているかを全く想像できない恐怖に震えた。
日雇い労働にあぶれてふらふらと帰宅の途につく新宿・靖国通りで、身分と行き先のはっきりしているサラリーマンの出勤時間にぶつかり、行き先も予定もない自分一人だけが逆流したあの朝の孤独感は、ある意味で僕の原点。
いずれにしても、腹が減っては夢さえも見られない、ことを知る。
この頃、当時ハマッていた
「村上春樹」を真似て書いた習作。
8月。週刊宝石編集部のスタッフに。この仕事を得た時点での全財産300円。居場所も肩書もない俺にとっては、経済的にも精神的にも技能的にも、本当にありがたい場所だった。
まだトップ屋の怪しさがわずかに残り、編集部はいつも馬鹿話とエロ写真と真面目なネタとがごちゃまぜで、とても刺激的。とはいえ毎週毎週、新たなジャンルの新たな企画が決まり、勉強をし、取材をし、原稿を書く毎日は、労働基準法とは明らかに無縁。週に2回くらい徹夜していたように思う。
また時間の経過とともに、悪い意味での要領のよさも発揮。手抜きとは言わないが、フレッシュが消えてくる自分に苛立ちも感じはじめる。
結局、安定し落ち着くと、次の場所へ行きたくなる本能が徐々に顔をもたげるようになり、このまま安穏としていてはダメになると刹那的な思いはどんどん強まり、91年12月。唐突に辞める。
週刊宝石は01年3月廃刊となる。就社せず一人で働き、生活する僕にとっては、社会人としての唯一の学校のようなものだった。まだポジションもプライドもなかったからこそ、学ぶことも、叱られることも、そして友達もできた。
週刊宝石在籍中に、生活はいつの間にか余裕ができ、スナックやクラブで飲めるようにもなった。現在の僕の飲み屋好きは、この頃の生活のせい、明らかに。
1989 年初。締切後、深夜にバイクで帰宅中に目白通りで自動車と正面衝突。車を飛び越え、バイクは大破。パトカーはもちろん、消防車も出動する大騒ぎだったのだが、僕自身は幸いにもかすり傷だけですむ。その瞬間とその後の冷静さは自分でも怖いくらいだった。
5月、山中湖マラソン(10キロ)。46分。
7月、事故の保険金で引越。バイクがなくなった替わりに、中落合のいわゆるワンルームへ。家賃6万3000円。初めて風呂がつく。ユニットバスだが、あまりの嬉しさに、初日にはバスタブに浸かりながら紅茶を飲んだ
11月、初めてのフルマラソン@河口湖。30キロを過ぎてからは両足が石に。加えて寒さと空腹。泣きそうになりながらも、なぜか笑いがこみあげてきた。タイム4時間48分。
1990 5月、山中湖ハーフマラソン。1時間52分33秒。
11月、河口湖マラソン。4時間22分20秒。
1991 8月、中落合のアパート近くで、三毛猫の赤ちゃんを拾う。出来心で「マンちゃん」と命名。以後、家が変わり、パートナーが変わるなか、現在に至るまでずっと一緒にいる。
10月、初めての海外旅行。高校時代の野球部の友人とロサンゼルスへ。
11月、河口湖マラソン。4時間16分47秒。
1992 週刊宝石編集部を離れて、仕事をスポーツ中心にシフトする。DOもENJOYもしてきたスポーツと、ビジネスでも付き合っていくことに。
3月からKKベストセラーズのスポーツ部門が、机と電話など仕事場を提供してくれる。フリーランスとしてはかなりありがたい環境だった。夏ごろからはJリーグ創設を控えて、サッカーの仕事増える。
3月、佐倉マラソン(3時間52分)、12月、河口湖マラソン(3時間57分)とフルマラソン2回。5月にはすでに恒例の山中湖ハーフマラソンも。
20代後半に入り、この頃、友人の結婚ラッシュ。
1993 3月、サイパンでスキューバダイビングのライセンス取得。
5月、Jリーグ開幕。山中湖ハーフマラソン。1時間52分44秒。
6月、引越。新井薬師の2DKへ。家賃は13万円になる。
仕事ではサッカーがさらに増加。初めての単行本(企画・構成)『ゼロからのキックオフ』(日本文化出版)を出版。
11月、河口湖マラソン。3時間59分46秒。
1994 2月、ベルマーレ平塚のキャンプ取材@沖縄。5月、アイルトン・セナ事故死。その翌朝の鷲羽山・琴風対談は精神的にきつかった。
7月、沖縄渡嘉敷にてダイビング。無数の流れ星と無垢な少女に鳥肌。
10月、広島アジア大会。初の国際大会取材。
11月、アポロン企画倒産により生じた未払い原稿料の回収。情報収集と恫喝などなど。疲れた。
大晦日、30歳を目前に「安住していてはいけない」と思い詰め、当時付き合っていた彼女に風呂場で突然「別れる」と宣言。僕なりの覚悟の表明ではあったのだが、いまにして思えば随分一方的なひどい話。
1995 1月、30歳。阪神大震災。年始から世間と乖離して沈思黙考していた時期とも重なり、無常感強まる。結果、さらに深い井戸の底へ。また貨幣経済への疑念から一次産業へ傾倒。そうだ、漁師になろうと心を決めかけた頃、仕事の依頼に突然、浮上。社会復帰。
東京シティマラソン。1時間48分28秒。
3月、佐倉マラソン。4時間12分07秒。
5月、深夜バス地方競馬巡りの旅(新宿出発〜高知〜荒尾〜名古屋〜上山〜大井)。
1996 3月、初めての海外取材。アトランタ五輪サッカー予選@マレーシア。ベテランカメラマン、今井恭司氏の「俺、長い間、サッカー撮ってきたけど、日本が勝つシーンを初めて撮れたよ」の言葉に、歴史的瞬間にいきなり立ち会えた幸運を噛み締める。
5月、FIFA総会取材@チューリヒ。予定の一日前、土壇場でのどんでん返しで「2002年ワールドカップ日韓共同開催」決定。理不尽さのあまり怒りに震えつつ、世界サッカーが政治の世界であることと、その世界における日本の地位の低さに沈思黙考する。
10月、アジアスーパーカップ@昌原。プサン近郊の中小都市にて、ベルマーレ平塚と一和天馬のアジア王者決定戦を取材。取材者が他にいなかったので試合後はホテルまで選手バスに乗せてもらって移動。偶然ながらホテルも同宿だった。
1997 2月、キングスカップ@タイ。
3月、ワールドカップ予選@オマーン。
7月、バリ島旅行。
9月、ワールドカップ最終予選で、UAE、カザフスタン、ウズベキスタン、韓国と日本を往復。11月、アジア第三代表決定戦@ジョホールバルで完結。
1998 3月、チャンピオンズリーグ@モナコ。5ヶ国対抗ラグビー@ロンドン。単行本
『泣いちゃった…けどワールドカップ』(NCY)出版。
4月、韓日戦@ソウル。
5月、結婚。三軒茶屋の2LDKへ。家賃は駐車場込みで20万円に。
6月、ワールドカップ@フランス。
9月、マドリッド日帰り取材@スペイン。
12月、中田英寿@イタリア。「サッカーマガジン」誌にてコラム『and so on…』を連載開始(1年間)。
1999 1月、離婚。「アサヒ芸能」誌にて『中田英寿の野望』を連載開始(7回)。
5月、自動車免許取得。
6月、シドニー五輪予選@香港。
7月、コパアメリカ@パラグアイ。
9月、韓日戦@ソウル。
10月、シドニー五輪予選@カザフスタン。11月、シドニー五輪予選@タイ。
2000 2月、当サイト「KNET」オープン。
4月、韓日戦@ソウル。
2001 3月、日本代表対フランス代表@パリ。「ストライカー」誌にて『翼よ』を連載開始(1年間)。
4月、日本代表対スペイン代表@コルドバ。
6月、コンフェデレーションズカップ@新潟・鹿島・横浜。
9月、
アメリカ同時多発テロ。
10月、日本代表欧州遠征@フランス・ウエールズ・イングランド。ヨーロッパ取材中にPC故障。新PC購入に伴い、サイトもリニューアル。
12月、ワールドカップファイナルドロー@プサン。
2002 3月、フジテレビのサイト「お台場どっとこむ」にて小説『Diary』を連載開始(15話)。日本代表海外遠征@ポーランド。
4月、単行本
『冒険者たち〜日本代表、ワールドカップへの道』(学研)出版。ワールドカップ関連取材@ソウル。「プレジデント」誌にて『プロジェクトワールドカップ』を連載開始(5回)。
5月、日本代表海外遠征@マドリッド。
6月、
ワールドカップ@日本・韓国。
9月〜10月、アジア大会@プサン。
2003 4月、Kリーグ&前園真聖&韓国代表対日本代表の取材@ソウル。
7月、八丈島へ一人旅。いつ以来か思い出せないほど久々の取材以外の旅行。
11月、茅ヶ崎へ移転。家賃は駐車場込みで13万円に。上京以来、6軒目の家。初めて家賃ダウンの引越。
.<僕と家と土地についての覚書>
2004 2月、「ストライカー」誌にて『FAR EAST FOOTBALL CAFE』を連載開始。
3月、
湘南ベルマーレのオフィシャルサイトにてコラム『風の先の終わり、海の波の続き』を連載開始。単行本
『プロサッカー選手になるには』(ぺりかん社)出版。ワールドカップ予選取材@シンガポール。
5月、サーフボードが当たり、顔面を骨折。
<経過報告>
7月、五輪代表取材@石垣島。
10月、単行本『
日韓ワールドカップの覚書』(講談社)出版。ワールドカップ予選取材@オマーン。
2005 1月、単行本
『星屑たち〜それからのアトランタ組物語』(双葉社)出版。「ワールドサッカーグラフィック」誌にて『誰がパスをつなぐのか』を連載開始。
3月、ワールドカップ最終予選取材@テヘラン。
5月、全仏オープンテニス取材@パリ。
6月、ワールドカップ最終予選取材@バンコク。ドイツ・ワールドカップ出場決定。
7月、初めての健康診断でレントゲンに影。「肺ガンの可能性が……」と告げられ、半日経ってからウロたえる。1週間後、CTによる検査の結果、シロと判明。
2006 2月、単行本
『負けずじゃけん。』(竢o版)を田坂和昭との共著で出版。
4月、高原直泰取材@ドイツ。
6月〜7月、
ワールドカップ@ドイツ。
9月 文庫
『フットボールタイム』(竢o版)を出版。
2007 1月、
「スポーツマスコミ塾」開校。
3月、湘南国際マラソン。5時間18分。
2008 1月、単行本『東京マラソンの舞台裏』(竢o版)を出版。
3月、湘南国際マラソン。昨夏、台風で崩落した西湘バイパスが未復旧のため今年は30キロに短縮開催。3時間22分。

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